2002-03-10(Sun) [長年日記]
■1 『カタクリ家の幸福』@シネ・リーブル池袋
微妙にドメインが似ている三池作品。終映後のしばの「ホント、この人どんな仕事でも受けるのね」との怒りのひと言が象徴する一品。私ゃジュリーのツラを愛でてるうちに終わっちゃったんだけど。
■2 『ピーター・ジャクソンの指輪物語』(日本語吹替版)@Tジョイ大泉
世界に二種類しか人間がいないのであれば、原作信者である私。英語はできなくても戸田奈津子の字幕のヒドさは諒解可能、ということで吹替版突撃。
字幕に比べれば格段にマシなのだが、こちらでもゴラム・韋駄天・スティングの三点セットは健在。こうなるとこれは字幕云々ではなく配給側の意向か。今後の『二つの塔』、『王の帰還』でも戸田奈津子登用の可能性は示唆されているが、よしんば字幕担当が交替したとして、言い回しはどうにかなっても固有名詞はどうしようもないのか。
「ゴラム」や「スティング」のあたりは、原文そのままだから、瀬田訳を使えというのは原作信者の我儘かもしれない。が、「韋駄天」は違うだろ。(ドゥネダインの王国の末裔との由来は常民には忘れられた)野伏のアラゴルンに対する、蔑みを込めた呼び名が「Strider=馳夫」なわけで。「韋駄天」だとシヴァ神の子にして増長天の八大将軍の一、で意味が反転しちゃうと思うんだけど。
映画じゃ本人もイシルドゥアの末裔(=人間の王)であることを荷に感じているみたいだし(なので、アルゴナスの柱を越えたところで電波を受信して演説を始めたりはしない)、明らかにおかしいだろう。
こんかいは字幕が無い分、画をじっくりと眺められ、ピーター・ジャクソンの手になる丁寧な仕事っぷりを堪能できた。
してみると、「だいたいピーター・ジャクソンは(ピーター・ジャクソンのくせに)真面目すぎるんだよ今回。」という指摘は真っ当すぎるのだけど、そこがひとつの指輪のひとつの指輪たる所以でありまた、原作を大胆にイジってしまうにはナイーヴすぎる、というピーター・ジャクソンがジージャンズであることの証左でもあると思うのだけれど。監督製作脚本が彼であることの意義と限界、とでもいおうか(なにやら次作以降は結構大胆にイジっちゃうらしいけど。どれぐらい?)。
終映後、物販コーナーを覗くとブルボンのCD-ROM付きお菓子(260円!)が置いてあったので保護して帰宅。内容の閲覧は明日だな。
吹替版はゴクリが「いとしいしと」と言っていたので次作以降の吹替にも期待しちゃうもんね。
ゴクリ=ジャージャーなのかよッ!完全版によるゴクリ虐待長尺希望。
その符合には触れたくなくて敢えて黙殺していたのですが、ジャージャーをああしたならゴクリもそうしてもいいんじゃないの?とか。田中明子を封殺した手前、「しと」「しどい」は使いづらかったのか。